美濃紙は平安時代になると需要を急激に増加しました。その背景に仏教の興隆・普及によって、経文(きょうもん)や経典(きょうてん)の需要があったとされています。この紙の普及に伴い、全国各地から様々な紙が京都や奈良に送られましたが、美濃紙は都での評判が極めて高かったようです。このため京都の上層階層者たちは、縁故を頼って美濃紙を求めたと言われています。
美濃紙がもっとも多く京都に進出したのは応仁・文明(1486年~)の頃で、商工業が大いに発達するのと同じくして、美濃製紙業も急速な発達を遂げたものと考えられています。 
美濃紙の中心は現在の美濃市及び周辺の地域で、市内大矢田に紙市がありました。 
応仁3年、大矢田紙商人は、京都にある領主の宝慈院に対し、毎月6回紙荷の年貢を納入しています。

江戸時代になっても美濃紙は受け継がれましたが、紙漉き業はみだりに免許されませんでした。 
ですが、明治維新により制限がなくなり国内の紙需要は増大しました。 
明治初年における美濃和紙の生産数量は、「美濃紙29萬束、23萬2千円」とあり、現美濃市の地域が紙生産の中心地であったことが分かります。このため、紙漉きを副業から正業に転ずる人も多く、紙漉き人口も増加しました。紙問屋は利益を増やすため、互いに競争を始めることになりました。

江戸時代になっても美濃紙は受け継がれましたが、戦争が始まると日用品のほか、爆薬包装紙・航空機用パッキングなどの軍用品としても、紙は極めて多くの方面で使用されました。美濃紙もこれらを支えることとなりました。しかし、経済不況、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資、労働力不足等が美濃和紙生産に大きく影響しました。紙需要の飛躍的増大に伴う機械抄きの導入、機械抄紙との競合は、大正時代末期から戦後にかけて登場した、石油化学製品(天幕用紙⇒ポリシート)の躍進を受け、紙業界に大きな影響を与えました。

 

業者多数を有し問屋支配型であった美濃紙産地は、大量消費が期待できる日用品素材を中心に生産しているため、機械抄きとの競合、石油化学製品の進出などの影響を受け、転廃業あるいは自ら機械抄きへの進出などにより、昭和30年代には1200戸あった生産者数が、昭和40年には500戸に激減しました。
その後減少を続け、昭和50年には100戸、昭和60年には40戸となりました。昭和58年、手漉き和紙の振興をはかるため、美濃手漉き和紙協同組合が設立されました。伝統技術に新しい改良を加え、その技法を後世に残すよう努力を続けています。昭和60年5月22日には、通産大臣から伝統工芸品に指定されました。

2014年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録された美濃和紙ですが、現在では美濃和紙問わず、和紙職人の数が減り生産量が減少傾向にあります。そんな中、美濃和紙も時代の流れとともに新しい道を開いています。和紙を使った新しい製品の開発、医療現場での活用など、様々な分野で美濃和紙が活躍できるよう、職人は日々精進しています。

美濃和紙は様々なところで使用され、

皆様の生活を支えています。

実際に美濃和紙を使用した商品や製品は

たくさんあります。

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